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空白の理由 第二回

2‐E

「何だか、切ない...。」
 そう言葉を発する事がやっとだった。今の私の心はそう表現するしかなかったのだ。雄介の提案に沿って、ただ『幸せ』について考えていただけなのに、何故か心は力を失い、悲しく、やり切れない気持ちで一杯になってしまって、そこから一歩も進めなくなってしまった。どうして『幸せ』を思い描いただけで、こんなにも悲しくなってしまったのか?私は自分の心が分からなくなっていた。正直、動揺していたと思う。
 そんな私の心の揺らぎを受けて、雄介は私の肩に手を置いて、ゆっくりと首を振った。私は頷き、気を落ち着ける為に目の前の紅茶に手を伸ばした。雄介の手が離れる。少し震えているようだった。紅茶を一口飲むと、花にも似た香りが私の鼻と喉をくすぐる。不思議なもので、それだけで幾らか心が落ち着き、涙も止まりつつあった。
 それを見届けて、雄介が少し安心した様子で口を開いた。

「もういいよ。これで十分だ。」
 その口調は何か確信めいたものが含まれていて、どうやら雄介はこの不可思議な空白の断片を掴んだらしい。私はカップを置いて雄介の言葉に耳を傾けた。
「『幸せ』の話から、俺達は何かの話題に飛んだ。でもそれは、気楽な内容ではなかったみたいだ。」
「切ない話だった...っていう事?」
 雄介は黙って頷いた。しかし私は納得がいかなかった。確かに私は『幸せ』について考えて、突然切なくなってしまったが、それは私個人の事情かもしれない。無意識の内に、私の切ない記憶が思い出されただけなのかもしれない。だから、忘れ去られた話題が切ない話だったと結論付けるのは早計であるように思えた。その事を雄介に告げると、うん、と頷いてから言った。
「普通ならそうかもしれない。でも、やり切れなくなったのは君だけじゃないんだ。」
 私は思わず息を飲んだ。つまり、それは雄介も、
「俺も、何だか悲しい気持ちになったよ。」
 そう呟いて、雄介は煙草に火を点けた。自分を落ち着ける時の彼の癖だ。瞬間、甘い香りが広がる。少なからず、雄介も同様しているようだった。
「最初は普通に『幸せ』について考えていた。意味的というのかな。具体的なイメージじゃなくて、単語が次々と浮かんでいくだけだった。別に感情は伴ってなかったよ。でも...。」
「でも、何?」
 灰皿に灰を落として、雄介は続けた。
「でも、美雪が泣いているのを見たら、急に感情が湧き出してきた。重苦しくて、何だか悲しい...。」
 そして雄介はため息を吐いた。本当にやり切れない、そんな表情だった。
 雄介も私と同じように悲しい感情に襲われたらしい。しかし、疑問が浮かんだ。
「...でも、それは私が泣いてしまったのを見たからじゃないの?」
 感化された、というやつだ。物語の主人公に感情移入して、感情を追体験してしまうようなものだ。雄介は普段冷静だが、反面そういう点では繊細で、つまり涙もろい。今回もそういう事のように思えた。しかし雄介は即座に否定した。
「いや、これはそうじゃない。もっと中から、俺の内面から浮かび上がってきた感情だよ。『幸せ』を想う事で、俺の中では何故か暗い感情が湧き上がった。そして君の言葉を聞いた時に、俺の中にはそれは弾けて、もうその感情しかなくなった。」
 そう結んで、雄介は煙草を揉み消した。
「じゃあ、やっぱり...?」
 そう問い掛けると、雄介は頷き、応えた。
「俺達はあの後、何か悲しい話題を話していたんだろうな...。そしてそれは、」
 そう言って雄介はまた煙草に火を点けた。雄介も少なからず動揺しているのだろう。雄介は深く煙を吸い込んでから、言葉を継いだ。
「俺達に共通する、何かだったんだろう。」
「共通する...?」
 私は意味はその意味が分からず雄介に問うた。すると雄介は事もなげに応える。
「だってそうだろう?一方にだけ、例えば俺にとって悲しい出来事だったのなら、俺は悲しい想いをしても、美雪はそれ以上の感情を抱くことはないだろう。せいぜい、同情といった所だろうな。なのに今、二人とも悲しい感情を抱いてしまっている。」
 しかし同情が強くなり、つまりそれこそ感化されて同じ感情を共有する事だってあるだろう。私がその事を口にすると、再び雄介はゆっくりと首を振った。そしてはっきりとした口調で言った。
「この感情はそういう類のものじゃないよ。間違いなく、俺自身が体験したものだ。そうでなければ、あんなふうに内側から湧き出てこないよ。」
 つまり、私達は同じ悲しみを共有しているということになる。しかし、
「...それって、何?」
「え?」
 不意を突かれたようで、雄介はきゅっ、と目を見開いた。
「私達に共通する悲しいことなんでしょ?それって、何?」
 そう尋ねた私には当然の理由があった。何のことはない、思い当たらないのだ。
「共通しているってことは、雄介も体験したことなのよね。それも多分同じ時、一緒にね。でもそんなことあった?そりゃあケンカとかもしたけど...。」
 そのまま続けようとすると、雄介は手で制した。
「ちょっと待った。同じ時とは限らないんじゃないのか?」
「どうして?共通することなんでしょ?」
 雄介は煙草の吸いさしを揉み消し、少し考えてから口を開いた。
「確かに一緒だった可能性は高いよ。でも、一緒に体験しなくても共有する時もあるだろう?」
 その問い掛けにしばし頭を巡らせたが思い付かない。仕方なく私は首を傾げた。
「例えば、美雪が指輪を無くしたとしよう。で、その指輪は俺がプレゼントしたものだったとする。」
「ピアスの一つもくれたことないのにね。」
「......で、その指輪は二人が始めてデートした時に買ったもので、言わば思い出の品という訳だ。」
「そういうロマンティックなシチュエーションも、一応は頭にあるんだ。」
「.........で、指輪を無くした事実に最初に気付くのはもちろん、美雪だ。そしてこの時点で悲しくなる。」
「そういう想い、してみたいけどねぇ...。」
「............で、その事実はやがて俺の耳に入り、残念な気持ち、つまり軽い悲しい感情になる。」
「そうかな。『そんなのあげたっけ?』とか言って、すっかり忘れてそうだけどな。」
「...............今度プレゼントするから、黙って聞け。」
 私は大人しく、口を閉じた。それを見届けて、雄介は続ける。
「つまり少々のタイムラグがある訳だ。でも俺達に共通していることに変わりはない。」
「そうか、確かにその場に一緒にいることに必然性はないのか。」
 私の感想に雄介は満足そうに頷いた。
「そう。だからこの場合は『俺達に共通した出来事』であると考えた方が良い。」
「...でも、それってさっきの私の言ったことと、どう違うの?結局探し物は同じじゃないの?」
「いや、さっきの『一緒に体験したこと』だと、取りこぼしがあるかもしれない。そういう方針で探していくと、今の例みたいな『俺達に共通した出来事』を見逃す可能性があるだろ。」
 ここでようやく私は違いを理解した。要は探す範囲の広さの問題なのだ。そして結局、私達に関するエピソードを総ざらいすれば良いのである。
 待てよ。ということは、
「気が進まないな...。それって、私達に共通した、切ない出来事を思い出さなきゃいけないってことでしょ?」
 すると雄介も苦笑しながら頷き、
「そうだな。そういうことになる。」と応えた。どうやら雄介はその事は既に予測済みらしい。しかし私はその苦しさを知っている。というのは、
「私の友達にね、そういうことした人がいるんだ。」
「悲しい思い出ばかりを思い出そうとしたのか?物好きな人だね。何かの修行なのか?」
「なんかね、忘れるために思い出したとか言ってたよ。よく分からないけど。」
「...やっぱり修行じゃないのか?」
 雄介は目を丸くしている。実はその後、その友達は忘れたものを思い出すために、思い出そうとしたという、聞いても余計に分からない行動を取ったのだが、そんなことよりも重要なのは、
「でもね、やっぱり相当苦しかったって。涙が止まらなくなるんだって。」
 それ聞いて雄介はそうだろうな、というような納得の表情を浮かべた。確かに誰だって辛い思い出なんて思い出したくない。それを連続して思い出さなければならないなんて、雄介の言葉通り、まさに『修行』だろう。私にはとても耐えられそうにない。しかし雄介はそんな私の不安を掻き消すように言った。
「俺達の場合、そんなに多くの事を思い出す必要はないだろうな。」
「どうして?」
「だってさっき美雪も言ってただろ。まずは今日の事から思い出してみようって。」
 確かに言ったが、それがどうして思い出す作業が少なくて済むという理由になるのだろう。納得いかないでいると、その表情を読み取ったのか、雄介は尋ねてきた。
「じゃあ美雪は、わざわざデートの時に昔々の切ない出来事を話したいと思うか?」
「それは...。」
 しないだろう。もっとしっとりとした、例えば雄介の所に泊まるとかなら、そういう昔の思い出を話すような事はあるかもしれないが、しかしデートは遊びに行く事なのだから、そんな場でわざわざそんな話をする人はいないだろう。そう答えると、雄介は更に続ける。
「ということは、ここ最近の出来事の事を俺達は話していたんだと思う。実際、話が止まる直前まではそういう話題だったんだしな。」
「じゃあ、そんなに深刻でもないのかな...。」
 少し安心して私がそう言うと、しかし雄介は首を振った。
「普通ならそうだ。ただ、今回の場合は特殊だよ。美雪は感じなかったか?『幸せ』からの連想の最中、それ以上進ませないような、妙な抵抗感を。」
「そういえば...。」
 そんな感じだった。切ない気持ちが邪魔をして、連想がそれ以上進まなくなってしまった。
「...それほど、強烈な感情が絡んだ話だったんだろう。俺達の思考を強制的に停止させる程の、切ない記憶なんだろうな...。だからこそ、進めなくなったんだ。」
「感情が記憶に影響するってこと?ちょっと想像できない。」
 すると雄介は力なく微笑んだ。
「それは誰もが無意識に行っているからさ。記憶は感情によって、実際よりも大幅に脚色されるんだよ。楽しければより楽しく、悲しければより悲しくね。そういった感情に強く色付けられた事実は強く記憶に残り、再生しやすくなるものさ。美雪も思い出には必ず強い感情が一緒になっているだろう?」
 確かにそうだ。逆に言えば、強い感情のない出来事は記憶されても出て来ないということか。
「そしてあまりにも強烈なマイナスの感情が込められた場合、それは自己防衛のために忘れられるんだ。」
「それって、交通事故とかの直前の記憶がないとかってこと?」
「そう。ただ、忘れるということは人間の記憶が失われることじゃない。思い出せなくなるだけだ。それはある面では不便だけど、しかし一方で救いでもある。どんなに辛い記憶でも、オブラートで包み込むように、ぼやかして、淡くして、忘れさせてくれる。だから人間は辛い記憶に押し潰されず、前へと進んでいけるんだよ。」
 そして雄介は一呼吸置いて、私に尋ねた。
「でも、これからやろうとすることは、その救済を放棄することだ。」
 じゃあ、私は『それ』を忘れたかったんだろうか?それなら掘り起こすべきではないのかもしれない。
「どうする...。そんな思いまでして再生することなんだろうか...?」
 同じように、雄介は静かに問うた。しかしその奥にははっきりと緊張が見えていた。私は、
「........................。」
 その時、私は『止めよう』と言おうとした。でも言葉にならなかった。それは何か、見えない力に押さえ付けられるような、丁度、雄介が言っていたような、あの『幸せ』の先の再生を拒んでいるものと同じような、不可思議な力だった。
 今私の中には二つの力が拮抗している。再生を拒むものと、再生を促すもの。でもそれは得体の知れない何かではなくて、間違いなく私の一部である感触があった。私の中で、二人の私が争っている。
 第三者としての私は、どちらに加担するべきか。しかしそれはもう決まっていた。だって『止めよう』って言えなかったから。私は見たいのだ。どうして切ない気持ちになってしまったか、その空白の真実を。そこにはきっと、大切なものがある。だから私は今度こそ力を込めて言った。
「やって、みようよ。」
 途切れ途切れの私の言葉に、私の雄介が顔を上げた。
「それって、すごく、大切な事だったと思うんだ。だってそうでしょ?私達に共通する悲しい出来事を、どうして私達は忘れてしまっているの?じゃあ、私達はその思い出をオブラートに包んで、なかった事にして、誤魔化しているってことになるよ。都合の良い事だけを覚えてるなんて、それじゃただの恋人ごっこじゃない...。」
 すると雄介は柔らかく微笑んだ。まるで私の答えを予想していたように。雄介の瞳には先程の緊張と共に、強い意志も感じられた。きっと雄介も同じように自分の中の二人の自分をジャッジしたのだろう。そして私と同じ結論に達したのだ。
 私はこれから行われる厳しい作業に対して覚悟を決めるように、紅茶を飲んだ。そして雄介は煙草を口にし、一瞬、口をきつく結んでから、言った。
「始めようか。」

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